富岡鉄斎(1836−1924)


富岡鉄斎















天保7年(1836)、京都の法衣商十一屋伝兵衛(富岡維叙)の次男として生まれる。はじめ猷輔を通称としたが、のち百錬、字を無倦、号は裕軒からのち鉄斎と改め、鉄人、鉄史、鉄崖などの別号を用いる。耳が不自由のため、幼少の頃から国学・漢学・詩文などを習得し、19歳頃より文人としての教養を身につけるために絵を学んだ。特に流派には属さず、ひろく先人の絵を手本とした。安政3年(1856)頃より女流歌人大田垣蓮月尼に学ぶ。文久元年(1861)には長崎に遊学し南画を学んでいる。30歳代から40歳代半ば頃までは、大和石上神社や大阪の大鳥神社の神官を勤めながら全国を行脚し、「万巻の書を読み、万里の道を往く」文人生活を
送る。明治14年(1881)、兄伝兵衛の死に伴い京都に定住し、以後89歳の長寿を全うするまで読書と書画の制作に専念する。明治30年(1897)、日本南画協会を結成の創立に参加、多くの展覧会の審査員となるが、一般の展覧会に出品することなく、ひたすら文人としての生活を貫いた。ゆえに最後の文人画の巨匠といわれる。「決して意味のないものは描いていない」と言い、「わしの絵を見るなら、まず賛を読んでくれ」と、主として古典に触発され、自由大胆な水墨と多彩な色彩による独特の作風を完成する。多くの仙境画や蘇東坡に取材した作が知られている。

明治26年(1893)京都市美術工芸学校教員、大正6年(1917)帝室技芸員、大正8年(1919)帝国美術院会員となる。大正13年(1924)12月31日、持病の胆石症のため京都の自宅で死去する。行年89歳。 
 


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